自由自由と書いて、じゅじゅと読みます。
自由自由とは昔読んだ絵本の主人公のネコの名前です。
ネコが好き、映画が好き、た~が好き。
遠距離恋愛中のた~を追いかけて、時々旅をします。
そんな私のぐうたら日記

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自由自由の青森ひとり旅
パート3
青函トンネル記念館を後にしていよいよ龍飛岬です。
車道沿いにしばらく歩き海を見下ろす『ホテル竜飛』を通り過ぎて進むと石川さゆりの歌が風に乗って聞えてきました。 遂に来た!って感じです。
青函トンネル工事の殉職者慰霊碑に手を合わせて、さらに進むと海に面した広場が見えます。
そこに「津軽海峡冬景色」の歌碑がありました。歌はそこから流れてきてたみたいです。
歌碑の下の赤いボタンを押すと「津軽海峡冬景色」の2番が流れます。
さて実際の音を聞きながらお読みください。
you tubeに石川さゆりの歌碑の動画がたくさんアップされてました。
灯台はもう少し先です。
平日のせいか観光客は少なくみんな車です。
冬でなくても風は強いです。
階段をを登りきると灯台です。
歩いてる間、後ろから石川さゆりの歌が2~3回流れてきました。
みんな来たら押したくなるのかな。あの パパパパ~♪ というサックスのイントロが流れてくると(またかと)可笑しくなります。
龍飛埼灯台です。
なぜか 私一人でした。
”ごらん あれが竜飛岬 北のはずれと~♪
~凍えそうなかもめ見つめ泣いていました
ああああ~ 津軽海峡 ふーゆげ~しきー・・・・”
一番と二番がごっちゃになってますが
竜飛岬に立って「津軽海峡冬景色」を歌う目標が達成できました。
かもめではなくカラスが泣いていましたが・・・
歌では ”たっぴみさき” となっていましたが、正式には龍飛埼だそうです。
作詞の阿久悠が ”たっぴさき” だと、字あまりになるので”岬”にしたそうです。
それが全国区になったので表示も竜飛岬で通用するようになったそうです。
着きましたー!
これが津軽半島の北端 龍飛埼です。右端にうっすら見えるのは北海道です。
岬の西の端まで行ってみました。
下を見下ろすと岩が
なんか「砂の器」で見たような場所。
海岸線のすぐ際まで岸壁がせまっています。
左下に見えるのはコテージでしょうか。
後で行った観光案内所の人に聞いた話では昔まだ道路がなかった頃、この岩づたいに人が行き来してたそうです。
下に土産物屋さんがありました。愛想のいいおばちゃんに負けて
ホタテの串焼きです。 うま~い!
マグロも撮っていってねと言われました。何かと思ったらこれでした。
若い人が出て行ってこの辺の漁師の家はみんな跡継ぎがいないと言ってました。
まだ年寄りが生きてる間に漁を教えたいから来てくれる人を探してると言ってました。
遊ぶところはないけど、それさえ我慢してくれたら家も何もかんも用意すると言ってました。
年齢制限はないそうです。
そろそろ帰ろうと歩きだしたら、
なんと昨日の親切なおじさんの電話の相手の方に遭遇しました。
地元ではかなり有名な人みたいです。
「タッピya の母さん」テレビにもよく映るそうです。
地下足袋も赤でコーディネートしてます。
帰りは階段国道を下ります。
日本でただひとつの車が通れない国道です。全長338.2m 片道362段の急な階段です。
途中に白いポストがあって中を開けると記念スタンプが押せます。

漁港の奥に見えるのは帯島です。
本当は帯島が竜飛岬の最先端です。
義経北行伝説で有名な島らしいです。
義経はここで帯を締め直し、アイヌから巻物を授かり津軽海峡を越えて北海道へ渡り、
そして樺太、モンゴルへと移り、
最後は成吉思汗(チンギス・ハーン)になったという壮大な伝説です。
龍飛岬郵便局です。
た~に絵ハガキを出しました。
隣の「龍飛岬観光案内所」に入りました。
映画「砂の器」の撮影が竜飛から始まったと聞いたので、あのトンネルの場所を知りたかったのです。
すると応対してくれた女性が「あー、あれですね」と奥の和室を指さしてくれました。
そこにはうわ~~!!
あのトンネルの絵です。
そうです。「砂の器」で流浪の親子が歩くあのトンネルです。
高野元孝という画家が描いたそうです。
洞門(どうもん)というそうです。
三厩(みんまや)漁港付近から龍飛までの約12kmにわたる区間には道路と呼べるようなものはなく、人々は岩礁地帯を命がけで通っていました。
岩から岩へ飛び歩いたり崖をよじ登ったり、それこそ波に浚われてしまうような危険を冒して。
そこで名産のアワビを売った収益で手掘りでトンネルを掘り道を開通させたそうです。
トンネルは十三洞門と言いますが、現在は7つしかなく映画で映った洞門も道路拡張などで今は姿を消したそうです。残念。。。
バスの時間までまだ余裕があったので中を案内してくれました。
ここは元「奥谷旅館」で太宰治が『津軽』を執筆したところです。
宗方志功、高橋竹山(津軽三味線)もよく泊った宿です。
太宰治が泊った部屋です。
太宰治の「津軽」の中の ”鶏小屋”は龍飛の集落の事です。
最初は漁の為の番屋だけだったのが、家族を呼び寄せたりしてだんだん集落が出来あがって行きました。強風から守るため周りに囲いをしてあったので鶏小屋に見えたのでしょうと案内の方は言ってました。
棟方志功の部屋には作品も展示してありました。地元出身だけあってふた部屋も使って展示していました。宿帳も見ました。
壁には「海峡」のポスターも。
ポスターを見つめていたせいか、ここで思わぬ話を聞きました。
案内してくれた女性の家が「海峡」の撮影で使われたそうです。
高倉建が海底調査のために一人で住んでた漁師小屋です。
そこへ吉永小百合がじゃっぱ汁を持ってくるんですー!
ああ あれはセットじゃなく本物だったんだ~とまたカンドー。
かつてはトンネル工事の作業員の宿舎や家族の為の団地。
学校もあってとても賑わってたそうです。
朝行った記念館は小学校の跡地に建設されたそうです。
玄関には堂々とした文字が(今気付いた)
玄関に飾ってある看板。棟方志功が奥谷旅館の女将さんにと書いたものです。
以前は外に出してありましたが、ある日忽然と消えてしまいました。
盗まれたんでしょうか。何年も行方不明になっていたのが、それを買った人から連絡が来て無事戻ったそうです。
バスで三厩駅に戻ります。
笑うしかない時刻表です。
駅舎の壁に「津軽」
「ここは本州の袋小路だ。読者も銘肌せよ。
諸君が北に向かって歩いているとき、
その路をどこまでも、さかのぼり、さかのぼり行けば、必ずこの外ヶ浜街道に至り、
路がいよいよ狭くなり、さらにさかのぼれば、すぽりとこの鶏小屋に似た不思議な世界に落ち込み、そこに於いて諸君の路は全く尽きるのである」
ここで訂正です。
津軽線は電車ではなくディーゼル車だそうです。(た~からの指摘)
15:19 で帰ることにしました。
これなら夕方に青森に戻れると思いきや。。
私はアホです。
青森まで直通だったのに行きの感覚で蟹田で降りてしまいました。
次の列車は2時間後です。どっひゃ~!!

喫茶店どころか駅前の食堂も15時でおわりでした。ぴ~
お腹ぺこぺこで青森に着きました。
夕食は口コミでも有名な「おさない食堂」です。
ほたてバター焼き定食を注文しました。
でもこれだけでは足りず駅弁も買って食べました。
あおもり倉石牛 と、うに かに いくら対決です。

ふ~ お腹いっぱい。
竜飛岬だけじゃなく色んな話をたくさん聞けて満足の一日でした。
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