自由自由と書いて、じゅじゅと読みます。
自由自由とは昔読んだ絵本の主人公のネコの名前です。
ネコが好き、映画が好き、た~が好き。
遠距離恋愛中のた~を追いかけて、時々旅をします。
そんな私のぐうたら日記

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東京国立博物館の
キトラ古墳壁画展に行ってきました
2時間待ち~。。。。。。
なんや~、この列は!TDLかUSJか!
GW中は混んでるだろうと行かなかったのに、何と今でも入場制限してました。入場するまで2時間待ちだけど、壁画まではさらに30分かかると係員が放送してました。
暇なので写真を撮ったりして時間つぶし。
平成館入口の木に花が咲いてたのでパチリ。
ユリの木だそうです。モクレン科です。
いよいよ入場です。
キトラ古墳とは奈良県高市郡明日香村阿部山に所在する直径14m程の円墳です。
7~8世紀にかけて作られたと考えられています。
なぜ「キトラ」というのか?
この場所は阿部山の南斜面にある小字北浦という地名で、その「北浦」の転化とも言われています。
でも地元では地名ではなく昔からキトラ、キトラと呼ばれていたそうです。
一説には、鎌倉時代に開けられた盗掘孔から見える壁画(四神)の絵が 正面が亀、その横にトラが見えたため村人たちは ”あの塚には亀がいてる、虎がいてる” と言うわけで、訛ってキトラとなったとあります。
さて肝心の埋葬された主はというと副葬品などから天武天皇の皇子か側近の高官の可能性が高いと言われてます。
候補に挙がってるのは高市皇子(たけちのみこ)と右大臣阿倍御主人(あべのみうし)です。
石棺は二上山(にじょうざん 昔はふたかみやま)の凝灰岩を使用しています。
今回展示される壁画はこの古墳の石室の壁や天井に描かれたものです。
東西南北の壁に 青龍 白虎 朱雀 玄武 が描かれ、天井には天文図も描かれています。
前置きが長くなりましたが、いよいよ入場です。
まず入口をはいると壁画の複製陶板が展示されてます。
すでに混雑
複製見るのに行列です。
写真は私が行った当日のではありません。
こんな風に展示されてるというイメージです。実際はもっと人が塊って群がってました。
まずは東面の青龍(せいりゅう)
なんか よくわかりませんが。
陰陽五行説による色の割り当て(五色)は青です。
盗掘孔から流れ込んだ泥でここまでしか見えません。赤く見えるのは舌です。
主要な部分が殆ど泥まみれで判然としません。
僅かに見える舌先、頭部、踏ん張ってる前脚の描き方が高松塚古墳の物と類似しており、全体像も似たものであったと推測されています。
ほんとはこんな絵柄だそうです。
西を司る白虎(びゃっこ)です。
これが虎か?
西の色の割り当ては白です。
白虎は通常、南を向いた姿で表わされることが多いのですが
キトラの白虎は右(北)を向いています。玄武と向き合っています。
これは殆ど類例がないそうです。
尾が後脚に絡まって真上に跳ね上がる図柄は、8世紀以降に中国で好まれたそうです。
大陸の流行を積極的に取り入れていたそうです。
南の朱雀(すざく) 五行思想による色の割り当ては赤(朱)
この絵は盗掘孔から位置がずれていた為、損壊を免れました。
すべての絵を描き終えた後に、石室を最後に閉める役割の石に描かれています。
こんなんだそうです。手塚治虫の「火の鳥」みたい。
走りながら飛び立とうとしている図柄だそうです。
北壁に描かれた玄武(げんぶ)です。
色の割り当ては黒です。
玄武とはなんと亀と蛇なんだそうです。(知らなんだ!)
甲羅の上で絡まりながらにらみ合う亀と蛇。
高松塚古墳のは頭部が削り取られていたのですが、キトラの玄武はほぼ完全な姿で残されており、なんと亀に耳がついていることが判明。昔は耳があったのか!?
そして天井には天文図です。
拡大してご覧ください。
星は金箔で表現され赤い線でつないで星座に見立てています。
右が太陽、左が月です。
真ん中の小さい円の右上に北斗七星が見えます。
まだまだ調査中ですが、どうやら東アジア最古の天文図らしいです。
星の位置がおかしいとの後世捏造説もあり。(鎌倉時代に描かれたとの説もあり)
そして四神の下には頭が獣で身体が人間の十二支も発見されました。
東面の寅です。
北面の子(ね)、丑(うし)です。
どんなに想像しても見えません。
壁画は漆喰の剥落や亀裂の進行、カビの発生のため、はぎとり保存になりました。
壁画の取り外し道具も展示されてました。(カタログから撮影)
漆喰は生クリームの様な状態で、青龍と白虎は大部分が石面から剥がれていてすぐにでも取り出さないといけない状態だったそうです。でも普通の道具だと壁画が損傷してしまう。
そこで「疑似漆喰」なるものを作りありとあらゆる道具で剥ぎ取りをシュミレーションしたそうです。
「疑似漆喰」は生クリームからナタデココ、寒天からゼリーとあらゆる材料で再現したそうですが漆喰層の状態は湿度100%にも関わらず作業中に乾いていくそうです。
柔らかいクリーム状からスフレ状態になりクッキーにまで固まってしまうのでその都度へらを替えないといけない。発注しても作ってくれる業者もいなくなりました。
そして開発されたのが ダイヤモンドワイアー・ソー
当初、石ごと切り取ってしまうはずでしたが、漆喰層だけを切り離すことに成功しました。
大変な道のりだったそうです。
作業がいかに大変だったかを映像でも流していました。
そもそもこうなる前にすぐ保存措置をしておけば切り取ることなく石室の中で恒久保存できるはずだったのに、玄武をファイバースコープで発見した(1983年)後、10年以上もビニールシート一枚被せただけで放置したからです。
古墳の調査費と土地買収の予算が計上されたのは平成7年(1995年)
高松塚古墳壁画の大失敗のようにならない事を願います。
正面は北 玄武です。NHKのファイバースコープで撮影
南壁 朱雀が見えます。
泥が入り込んで東の壁が半分埋まってるのが分ります。
青龍かわいそう。
壁画取り外し後は石室は埋め戻されました。
石室に振動を与えないように重機は使わず職人の手で土を固めていったそうです。
2013年12月 埋め戻し作業終了
そして いよいよ実物と対面です。
複製だけ見て終わりかなと思ってたので本物を見れるとは。
だって入口に「複製のみの展示で実物展示はありません」みたいなことが書かれてあったので、てっきりそうなんだと思ってました。
たぶん実物を見れるのは最初で最後だろう。
何年かしたらもう複製でしか拝めなくなる。
何がなんでも最前列で見ねば!!!
上から見下ろすような形の展示でした。
「立ち止まらないでお進みください」と係員の人が始終叫んでいたので、立ち止まるのはほんの数秒でしたがひとつひとつ目に焼き付けました。(ホンマか?)
玄武、白虎、朱雀、十二支の子丑の順に展示されてました。
青龍は損傷がひどいため実物展示はありませんでした。
それではこちらでごゆっくりご鑑賞下さい。
1300年前の壁画が眼の前に。。。
大陸から渡ってきた高句麗系の絵師たちの姿が浮かんできました。カンドー。
(これはイメージです)
日本書紀にも記されている黄文氏(きぶみし)と山背氏(やましろし)です。
大和朝廷に仕えていた画師集団です。
その中でも黄文氏の黄書本実がキトラ古墳壁画の作者だとも言われています。
出口近くには高松塚古墳壁画の複製画が展示されていました。
平山郁夫など一流の日本画家7名により模写されたものです。
見終わったらちょうど閉館時間でした。
外へ出るとまだ行列は続いてました。
閉館時間過ぎても入れるんですね。
偉大な歴史に触れた後はお腹が空きます。
ふ~。。
と言うわけで恒例の。。。
お楽しみいただけましたでしょうか?
博物館へ行かずとも、行ったような気になれたなら嬉しいです。
自由自由のキトラ~探訪でした。
キトラ古墳壁画展に行ってきました
2時間待ち~。。。。。。
なんや~、この列は!TDLかUSJか!
GW中は混んでるだろうと行かなかったのに、何と今でも入場制限してました。入場するまで2時間待ちだけど、壁画まではさらに30分かかると係員が放送してました。
暇なので写真を撮ったりして時間つぶし。
平成館入口の木に花が咲いてたのでパチリ。

ユリの木だそうです。モクレン科です。
いよいよ入場です。

キトラ古墳とは奈良県高市郡明日香村阿部山に所在する直径14m程の円墳です。
7~8世紀にかけて作られたと考えられています。
なぜ「キトラ」というのか?
この場所は阿部山の南斜面にある小字北浦という地名で、その「北浦」の転化とも言われています。
でも地元では地名ではなく昔からキトラ、キトラと呼ばれていたそうです。
一説には、鎌倉時代に開けられた盗掘孔から見える壁画(四神)の絵が 正面が亀、その横にトラが見えたため村人たちは ”あの塚には亀がいてる、虎がいてる” と言うわけで、訛ってキトラとなったとあります。
さて肝心の埋葬された主はというと副葬品などから天武天皇の皇子か側近の高官の可能性が高いと言われてます。
候補に挙がってるのは高市皇子(たけちのみこ)と右大臣阿倍御主人(あべのみうし)です。
石棺は二上山(にじょうざん 昔はふたかみやま)の凝灰岩を使用しています。
今回展示される壁画はこの古墳の石室の壁や天井に描かれたものです。
東西南北の壁に 青龍 白虎 朱雀 玄武 が描かれ、天井には天文図も描かれています。
前置きが長くなりましたが、いよいよ入場です。
まず入口をはいると壁画の複製陶板が展示されてます。
すでに混雑

複製見るのに行列です。
写真は私が行った当日のではありません。
こんな風に展示されてるというイメージです。実際はもっと人が塊って群がってました。
まずは東面の青龍(せいりゅう)
なんか よくわかりませんが。
陰陽五行説による色の割り当て(五色)は青です。
盗掘孔から流れ込んだ泥でここまでしか見えません。赤く見えるのは舌です。
主要な部分が殆ど泥まみれで判然としません。
僅かに見える舌先、頭部、踏ん張ってる前脚の描き方が高松塚古墳の物と類似しており、全体像も似たものであったと推測されています。
ほんとはこんな絵柄だそうです。
西を司る白虎(びゃっこ)です。
これが虎か?
西の色の割り当ては白です。
白虎は通常、南を向いた姿で表わされることが多いのですが
キトラの白虎は右(北)を向いています。玄武と向き合っています。
これは殆ど類例がないそうです。
尾が後脚に絡まって真上に跳ね上がる図柄は、8世紀以降に中国で好まれたそうです。
大陸の流行を積極的に取り入れていたそうです。
南の朱雀(すざく) 五行思想による色の割り当ては赤(朱)
この絵は盗掘孔から位置がずれていた為、損壊を免れました。
すべての絵を描き終えた後に、石室を最後に閉める役割の石に描かれています。
こんなんだそうです。手塚治虫の「火の鳥」みたい。
走りながら飛び立とうとしている図柄だそうです。
北壁に描かれた玄武(げんぶ)です。
色の割り当ては黒です。
玄武とはなんと亀と蛇なんだそうです。(知らなんだ!)

甲羅の上で絡まりながらにらみ合う亀と蛇。
高松塚古墳のは頭部が削り取られていたのですが、キトラの玄武はほぼ完全な姿で残されており、なんと亀に耳がついていることが判明。昔は耳があったのか!?

そして天井には天文図です。
拡大してご覧ください。
星は金箔で表現され赤い線でつないで星座に見立てています。
右が太陽、左が月です。
真ん中の小さい円の右上に北斗七星が見えます。
まだまだ調査中ですが、どうやら東アジア最古の天文図らしいです。
星の位置がおかしいとの後世捏造説もあり。(鎌倉時代に描かれたとの説もあり)
そして四神の下には頭が獣で身体が人間の十二支も発見されました。
東面の寅です。
北面の子(ね)、丑(うし)です。
どんなに想像しても見えません。
壁画は漆喰の剥落や亀裂の進行、カビの発生のため、はぎとり保存になりました。
壁画の取り外し道具も展示されてました。(カタログから撮影)
漆喰は生クリームの様な状態で、青龍と白虎は大部分が石面から剥がれていてすぐにでも取り出さないといけない状態だったそうです。でも普通の道具だと壁画が損傷してしまう。
そこで「疑似漆喰」なるものを作りありとあらゆる道具で剥ぎ取りをシュミレーションしたそうです。
「疑似漆喰」は生クリームからナタデココ、寒天からゼリーとあらゆる材料で再現したそうですが漆喰層の状態は湿度100%にも関わらず作業中に乾いていくそうです。
柔らかいクリーム状からスフレ状態になりクッキーにまで固まってしまうのでその都度へらを替えないといけない。発注しても作ってくれる業者もいなくなりました。
そして開発されたのが ダイヤモンドワイアー・ソー
当初、石ごと切り取ってしまうはずでしたが、漆喰層だけを切り離すことに成功しました。
大変な道のりだったそうです。
作業がいかに大変だったかを映像でも流していました。
そもそもこうなる前にすぐ保存措置をしておけば切り取ることなく石室の中で恒久保存できるはずだったのに、玄武をファイバースコープで発見した(1983年)後、10年以上もビニールシート一枚被せただけで放置したからです。

古墳の調査費と土地買収の予算が計上されたのは平成7年(1995年)
高松塚古墳壁画の大失敗のようにならない事を願います。
正面は北 玄武です。NHKのファイバースコープで撮影
南壁 朱雀が見えます。
泥が入り込んで東の壁が半分埋まってるのが分ります。
青龍かわいそう。
壁画取り外し後は石室は埋め戻されました。
石室に振動を与えないように重機は使わず職人の手で土を固めていったそうです。
2013年12月 埋め戻し作業終了
そして いよいよ実物と対面です。
複製だけ見て終わりかなと思ってたので本物を見れるとは。
だって入口に「複製のみの展示で実物展示はありません」みたいなことが書かれてあったので、てっきりそうなんだと思ってました。
たぶん実物を見れるのは最初で最後だろう。
何年かしたらもう複製でしか拝めなくなる。
何がなんでも最前列で見ねば!!!

上から見下ろすような形の展示でした。
「立ち止まらないでお進みください」と係員の人が始終叫んでいたので、立ち止まるのはほんの数秒でしたがひとつひとつ目に焼き付けました。(ホンマか?)

玄武、白虎、朱雀、十二支の子丑の順に展示されてました。
青龍は損傷がひどいため実物展示はありませんでした。
それではこちらでごゆっくりご鑑賞下さい。
1300年前の壁画が眼の前に。。。
大陸から渡ってきた高句麗系の絵師たちの姿が浮かんできました。カンドー。
(これはイメージです)
日本書紀にも記されている黄文氏(きぶみし)と山背氏(やましろし)です。
大和朝廷に仕えていた画師集団です。
その中でも黄文氏の黄書本実がキトラ古墳壁画の作者だとも言われています。
出口近くには高松塚古墳壁画の複製画が展示されていました。
平山郁夫など一流の日本画家7名により模写されたものです。
見終わったらちょうど閉館時間でした。
外へ出るとまだ行列は続いてました。
閉館時間過ぎても入れるんですね。
偉大な歴史に触れた後はお腹が空きます。
ふ~。。
と言うわけで恒例の。。。
お楽しみいただけましたでしょうか?
博物館へ行かずとも、行ったような気になれたなら嬉しいです。
自由自由のキトラ~探訪でした。

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